書籍大臣は虚構のなかで

書籍大臣と書いて、"ほんのおおおみ"と読みます。

(7)『宮台教授の就活原論』 / 宮台真司

宮台教授の就活原論 (ちくま文庫) / 宮台真司(2011)

 

 「理不尽な就活を強いるデタラメな社会を生き抜くために、就活の原理を学ぶ本」――表紙にそう書いてあります。宮台氏がこの手の本を書くなら、どういうことを書くのか想像できてしまうほど、若い頃に宮台氏の本を読みました。ネットでは悪評判の多い氏ですが、発想のキレが本当によいです。その分、ロジックが物足りなく感じるときもありますが、それを差し引いても読んでいて面白いものが多いので、おすすめいたします。

 

 宮台氏は社会学者ということになっておりますが、「80年代で最も勉強した学者のうちのひとりであるところの発想オモシロ知的おじさん」ぐらいに思っておくと、とても親しく読めると思います。できるだけ僕なりに解説していきますが、ついていけないときは無視しましょう。そういう読み方で大丈夫です。

 

社会はいいとこ取りができないと言いました。人生もいいとこ取りはできません。何事につけいいとこ取りはできないのです。だから、何事につけても、「これさえあればOK」というものはなく、逆に、「これがあればもう絶対ダメ」というものもありません。(…)だから、本書を読む時にもあんまりカリカリしないほうが良い。僕たちの就活時代よりもゆるく構えるべきなのです。それよりも、就活がどうなろうが揺るぎない帰還場所=出撃基地(ホームベース)を作り、不安ベースより内発性ベースで進むほうが良いです。(p.227)

 

グローバル化、つまり資本移動自由化が進めば国際市場で新興国が台頭し、平均利潤率均等化の法則に従って労働分配率が下がります。同時に、企業寿命も確実に短くなります。親の世代――つまり僕の世代――の就職イメージを真に受けていたら、過剰に不安になります。(…)今後は、市場や国家に《依存》するのも危ないし、巨大企業に《依存》するのも危ないし、電力会社の地域独占供給に《依存》するのも危ないし、親や周囲の承認に《依存》するのも危ない。《依存》せずに《自立》するための帰還場所=出撃吉が必要です。だから、就活マニュアルに《依存》するのも危なく、従って本書に《依存》するのも危ない。本書が必要とされること自体が、社会的包摂生の欠如という意味で健全ではありません。本来はコモンセンスであるべきだし、コモンセンスを継承する社会があるべきです。(p.228)

 

 宮台氏の「ホームベース」という概念はとても分かりやすいから、ついつい「なるほど」と言ってしまいそうになります。ですが、ここでは正直に「分からない」と言うべきです。今の時代を生きる若い人であれば、ほとんどの人がホームベースを経験したことがないのではないかと思います。そんな状態で、やすやすと「分かった」というと、分からないまま終わってしまいます。

 

 無条件で受け入れてくれる場所というのは、昭和世代にとって、「絆=関係を縛りつけるものとしての履歴」を作れた家族であったり、親友であったりしたでしょうけれど、コミュニケーションが「空洞化」した現代において、 そういう履歴は作りにくくなっております。恋人でも親友でも、(痛いところをついて)傷つけたり、(期待や幻想を)裏切ったら、それで「ブロック」となり、終わりになってしまうんです。2ch的というか、そういうネット的な付き合いをリアルでも再現してしまっているのです。

 

 傷ついたり、裏切られたり、そういう失敗の経験こそ「関係の履歴」になっていくのですが、それとは逆の方向に進もうとしている若い人たち――なおかつ他の世代との交流を断っている若い人たち――にとって、ホームベースとなる場所は、いったいどこにあるでしょうか。おそらく「分からない」と思います。宮台氏も、私も、分かりません。あなたが自分の現実のなかで考え抜き、答えを生み出し、生きていくしかありません。

 

 同居人が文芸誌で書いてた「@各位 ラブやで〜」という概念も、ホームベースという概念と親和性が高そうだから、こんどじっくり考えてみます。(ラブやで〜の概観については、『「ラブやで〜」の連鎖』を参照してください)。

 

 学者らしく「社会的包摂」(Social Incusion)という難しい言葉を使っていますが、簡単にいえば「生きることが困難な人も排除しない社会がある状態」のことです。

 

 グローバル化のことですが、要するに、経済がどんどん自由になって、みんなが海外の安い労働力を求めていけば、スキルを持っていない日本人、特別な価値を持っていない企業、そういうものはどんどん不要になっていくということです。そういう現象を「コモディティ化」(日用品化)ともいうので、ぜひ調べてみてくださいね。

 

 いまのは本のあとがきでしたが、まえがきに戻ります。

 

 

東日本大震災で)救援物資の末端配分と、被災地と周辺地域の学童疎開が、人間関係資本(Social Capital)の欠落ゆえに困難に陥ったことが明白になったこともあって、とりわけ「共同性の不可能性と不可避性」――共同性が不可能でも追求せずにはいられないこと――についての意識が高まりました。平時を前提にした市場や国家など巨大システムへの過剰依存が、非常時に問題をもたらすこと。それを回避するには市場や国家への過剰依存を抑制した共同体自治しかあり得ないこと。これらも認識され始めました。温かさ云々よりも、安全保障としての共同体自治です。(p.5)

 

巨大システムへの依存で便益が調達できるがゆえに普段は見過ごしてしまいやすい、人間関係資本のありがたみ。それを改めて実感すると同時に、人間関係資本を存分に用いた活動を展開すること自体にもレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』的な明るさがありました。「災害ユートピア」とは、災害になると普段利用しているシステムが全く利用できなくなるので、システムを前提にした地位役割が無効化し、代わりに完全平等と利他性を二要素とする共同空間が前景化することをいいます。(…)自分の日々の振る舞いが、脆弱なシステムを前提にしたものでしかないという事実を思えば、消沈します。《従来のゲームが前提に充ち満ちたものだという感覚》は人を抑鬱的にします。(p.6)

 

《従来のゲームが前提に充ち満ちたものだという感覚》が、僕の周囲にいる学生たちの多くを就活から撤退させました。(…)彼らは口々に「就職活動をしている場合じゃない」「就活の気力がなくなった」と言いました。様々な願望が、試練にかけられることによって、素朴な願望から再帰的な願望に変わり、さもなければ想定不可能だった事態に大して願望が免疫されて、タフになり得ます。できるだけ多くの学生が、願望の断念ではなく、願望の再帰化に至ってほしいと思います。ここでいう再帰性とは「△△を願望することを願望する」という構えです。「敢えて願望する」とも言い換えられます。震災の前と後で就職に係る願望の内容が変わるのは自然ですが、単なる内容変更に留まらず、再帰的願望への昇格が望ましいと言いたいのです。願望の再帰化をもたらす《従来のゲームが前提に充ち満ちたものだという感覚》ゆえに、巷の就活本のデタラメぶりが際立つように成りました。就活本の大半は自己啓発本です。あとがきでも触れましたが、多かれ少なかれ自己啓発手法(Awareness Training Method)を取り込んでいます。僕はかねて自己啓発手法的な就活本に違和感を頂いてきました。(…)一口で言えば《癒やしを提供しつつ、デタラメな企業社会への適応を促すこと》への違和感。本書は、この違和感を出発点にしています。(p.7)

 

 野球をやってたのに、サッカーのルールになること。オセロをしていたのに、チェスのルールになること。僕たちは、好むと好まざると、そういう「デタラメなゲームのプレイヤーである」ということを強調します。そんなデタラメな変更があったときでも、これだけは信頼できるというホームベースが必要なのです。

 

 宗教というのは、「神と私」という関係を内面化して(インストールして)、どんなことがあっても絶対に揺るがない場所とすることができます。そういった意味で、ホームベースになっていますね。要するに、何でもいいのです。知恵を絞り、自分が何をホームベースにするのか考え抜き、そして最後に決めるのです。

 

人の能力は多面的です。あたまの良さもいろいろに理解できます。でもそれを横に置いて、受験勉強で良好な成績を残す力さえあれば、企業に入っても企業ごとに必要なことを教え込めると思われていたのです。これを前述のパーソンズの図式で捉えます。「どの大学や学部に入ったか」までは業績主義です。ところが採用の段になると業績が属性に変換されるのです。業績だったはずの学歴が、就職を境に属性に変わり、本人の意志では変えられない何かに変じるのです。(p.25)

 

 業績というのは、自分の努力によって変動するものです。どこかの大学のどこかの学部に合格するということは、自分の努力によってレベルが変わってくるのですが、それは入った瞬間までであり、入った後、特に就活のときに、自分の努力では変えることのできないもの(属性)になってしまうということです。そういう途方もない余計な変化を受け入れなければ、就活はできないのかもしれませんね。

 

企業とは、メンバーシップを含めて、「定常状態」(constancy)あるいは「動的な均衡」(dynamic quilibility)を保つシステムであり、環境が変化すればそれに応じてどのようにも変化する何ものかだ、というふうに理解されるようになりました。そこでは目標さえも取り替え可能になります。定常状態を保つために必要であれば、人員のみならず、目標さえも取り替えられます。和菓子の最上屋が、ビスケットメーカーとも氷菓メーカーともつかない北日本食品工業となり、やがて洋菓子のブルボンになるのです。花札屋だった任天堂が、今ではゲーム機のメーカーであり、あるいは公共的目的で利用される端末のメーカーです。ミシンのメーカーだったブラザーは、今ではプリンターやファックスなどの事務機器のメーカーです。(p.26)

 

企業側も、10年後に何を作っているか、どんなサービスを提供しているか、定かではない状況で人材を採用しなければなりません。その意味で、それなりにつぶしが効く――正確に言えば「適応力」のある――人材を採らなければなりません。かつて企業は皆さんに「適応」を求めました。企業も企業文化も「変わらない」「変わりにくい」ことを前提としたからです。今は違う。企業も企業文化も、企業存続のために変わるかもしれない。だから「適応」ではなく「適応力」を求めざるを得ないのです。(p.29)

 

従来の受験勉強で獲得可能な学歴は、「適応」を示しますが「適応力」を全く示しません。当然、企業が合理的であれば、採用において、単に学歴を頼るわけにはいかなくなります。(…)東大を卒業したから安心だ、といった学閥時代の構えはあり得なくなるということです。「せめて学歴だけは付けてあげたい」として「お受験」に勤しむ親たちは、その意味で単なる「馬鹿」であることになります。皆さんに馬鹿が感染(うつ)っていないでしょうか。(p.30)

 

 (うちの親がまさにそうでしたし、僕はそれが嫌で入学だけして中退したのですが)親が学歴を付けてあげたいと思う心理は、きっとかなり複雑なものだろうと感じております。僕の親はバブルを生きた人間なので、勉強するなんて頭がおかしいという時代のなかで生きてきたと自分で言っていました。情報の扱い方も分からないのに、やれ就職難民だの、やれ学歴社会だの、職場やワイドショーでいろいろな情報に触れ、《自分では全く経験したことのないこと》を子どものために判断しなければならないとなったときに、「とりあえず無難に」学歴を付けておこうと思うのでしょう。それに同情するつもりはありませんが。

 

 さて、変化する環境を前提にした適応力というのは何のことなのでしょうか。

 

分かりやすく言えば、「年長世代の自明性を破らない能力」ではなく、「年長世代の自明性を破る提案を連発しつつ、相対的に人間関係を台無しにしないで済ませる能力」が重要になります。抽象的に言えば「定常性の内側により多様なものを包摂する能力」です。(p.32)

 

社会システム理論では「区別」と「観察」を分けます。「区別」とは差異の線を引くことです。「観察」とは差異の線を引いた上で線の両側のどちらか一方を「指示」することです。適切な「区別」なくして、適切な「観察」はあり得ません。(…)噛み砕いて言えば、自分と相手の違いがどこにあるのか、自分の要求と相手の要求の違いがどこにあるのか、自分の視座や視界と相手の視座や視界との違いがどこにあるのか、ちゃんと把握できなければなりません。どちらの要求が適切なのか、どちらのモノの見方が適切なのか、という判断つまり「観察」は必ずしも拙速に行う必要はありません。むしろ時間をかけても良い。ただ「区別」はできれば瞬時ないしリアルタイムに遂行できることが望ましいです。なぜなら、その分「どちらが良いか」を評価する作業に時間をかけられるからです。先ほど紹介した「人間関係を台無しにせずに異論を述べる能力」の前提にもなる、今日最も重大なコミュニケーション能力、それは「相手を理解する能力」であると断言できます。(p.33)

 

(1)「大前提として、人間関係を台無しにしない」

(2)「年上の人たちが当たり前だと思っていることをぶち破っていく提案をする」

(3)「こちら側と向こう側の違いを正しく理解し、線引きを正確に行う」

(4)「そのどちら側を採用するのが最善なのか判断する」

 

――そういう能力のことを、総じてコミュニケーション能力というそうです。それがどうすれば身につくのか、なかなか難しいことですね。僕は運が良かったので、そういう能力がある人に「何を考えながら何をしているのかリアルタイムに解説してもらった」経験があります。バイト先に「デキる先輩」がいた人は、多かれ少なかれそういう経験があるのではないでしょうか。

 

でも、年長世代の方々が当然のように踏襲して来られた生き方を、これからの若い人たちが選ぶことは絶望的に困難です。(…)会社への所属に感情的安全を求めるのはもはや無理です。経営環境も労働市場も極めて流動的な中で生き残りを迫られているのです。そんな彼らを相手に「分相応に、まじめにこつこつ働けば必ず報われるよ」などと説くわけには、到底いかないのです。僕は何も「仕事での自己実現」は絶対にあり得ないと言いたいのではありません。まじめにこつこつが馬鹿げていると言いたいのでもない。言いたいのは「仕事での自己実現」を求めても、まじめにこつこつ働いても、報われる可能性が低いという事実です。そんな可能性の低いことに賭けるよりも、勤め先が倒産したり売上げ減で給料が下がったりして仕事で不本意な目に遭っても、承認から見放されず尊厳(自己価値)を手放さなくて済むような関係性を――つまり本拠地を――仕事意外の場で構築維持するほうが合理的です。(p.51)

 

 「自分に向けられた自分の感情(自己尊厳)を守るのが先、仕事を通じて叶えたい夢を実現するのは後」――そういう教訓を親が教えてくれたらいいのですが。

 

就職活動中の学生に「就活をしていて疑問に思うことは?」と尋ねると、よく出てくるキーワードが「嘘」です「『弊社が第一志望ですか?』と聞かれて嘘をつくべきかどうか迷った」「この企業に本当に入りたいのか、自分に嘘をついているのではないか」云々。待ってください。求められているのは、①その企業への就職によって実現したい何かがあり、それゆえに②状況に応じて機会主義的(臨機応変)に振る舞えるような人材です。機会主義的な振る舞いは、他者性(他者の視座に立つ能力)や迂回路の選択能力などを前提としています。そういうことを期待された人が「嘘をついていいか」などと悩むべきでしょうか。そんなことを言い出す学生は、①実現したい何かを大目標として持っていないか、それゆえに、②大目標のために状況しだいでなんでもするという覚悟が定まっていないか、どちらかだと思います。(p.58)

 

 僕はフリーランスで働いているのですが、僕みたいな人物にも刺さる――というか、状況次第でなんでもするという覚悟を決める後押しになる――話でした。翻訳の専門分野とかを聞かれるときの、ビジネスセンスというものに悩んでいたので、鵜呑みにするわけではないけれど、ああ、それが答えだなという感覚を得た気がします。

 

僕が面接担当なら、そう言う学生がいたら直ちに、ボロボロになった君には帰還する場所があるかと尋ねます。帰還場所があれば君は言葉通りに振る舞えるだろうが、帰還場所がなければ、口で何を言おうが、君には頑張りが利かない。実際どうなんだ、と尋ねます。帰還場所があると答えたら、今度はこう尋ねます。だったら君は、わざわざ限界を試す必要なんかないじゃないか。おカネがなくても、仲間とそれなりに楽しく戯れて生きていけるじゃないか。楽しく戯れて生きるだけじゃ、いったい何が足りないと思うのか、と。(…)自己実現に向けた強い動機がある場合には、それによって埋め合わされねばならない不安や空隙があるのではないか、と疑うのが自然になります。(…)とはいうものの、不安や空隙を否定的に評価しているわけではありません。(…)僕はただ、追い込まれた末の自発性を、内発性と取り違える愚を避けてほしいのです。(p.62)

 

 「われわれは何に切迫しているのか、あるいは何に切迫するだろうか」という問いを思いつきました。差し迫る不安というのは、どこからくるのでしょうか。かつて「夜と逃走についての断章」で書いた内容とつながるかもしれませんね。

 

長い間学生たちの就職活動を見て来て感じるのは、学生側の適職幻想が非常に強くなったことです。(…)「自分はこういう人間だから、こういう仕事が向き、別の仕事には向かない」という思い込みです。学生たちは「自分の人格的な本質さえ掴めれば、それに合った最適な仕事が見つかるはずだ」と考えるわけです。これはナンセンスです。10年前までランドセルを背負っていた人間に、自分の人格的な本質など判るはずがないし、その程度の若い人間は十分に可塑的で、その後の人生経験を通じて人は十分に変わり得るからです。「自分はこういう人間だから」などというのは、自意識にすぎません。(p.104)

 

僕は単純に、学生たちの選択肢が増えるのは良いことだ、不完全情報よりも完全情報のほうが良いはずだと思っていました。それが合理的に決まっていると思った。でも、性愛コミュニケーションと同じで、選択肢が増え過ぎると人々は混乱し始めます。性愛でも就職でも「最適マッチング幻想」が蔓延した結果、「もっと良い選択肢があるはずだ」と永久に迷い続け、全選択に失敗するようになりました。(p.111)

 

 まあ、大のオトナがこぞって「ぴったりの仕事がある」と言うもんだから、ランドセルブランク10年の若い人たちは、(なにせ「いい子」を育てることに成功したのだから)そういうものがあるんだろうと信じてしまうだろうし、そういう幻想をどの段階で、誰に、どんな出来事に打ち砕かれるのか、というのがそれぞれの人生経験かもしれませんね。

 

当然ながらテレビなどでの広告に登場するのは、専らBtoCの企業になります。テレビ広告が振りまくイメージに影響されて就職活動する学生は、BtoBの企業に目が向きにくくなります。(…)大学生にもなってBtoB企業とBtoC企業の識別もできず、消費者広告に登場するのがBtoCの企業ばかりであることを知らないというのは、頭が悪すぎます。会社四季報』にあたり、財務諸表を検討する、などして初めて優良企業か否かが判るのです。(p.128)

 

2008年頃から業績が悪化した企業による内定取り消しが社会問題化していて、世間は同情的ですが、多くの場合、僕は学生に同情しません。『会社四季報』や『帝国データバンク』などを読まず、イメージ先行で就職先を決めている学生が大半だからです。(p.129)

 

 そもそもブラインドシフトしにくいBtoB(消費者ではなく法人向けの製品を売る企業)の方が安定しているのですから、そちらのほうが良さそうにも思えます。僕なら知名度が低いけれど優良な企業に入って、そこでやりたいことをやるための土台を作る就活をします。BtoB企業の探し方としては、「アップル 取引先」みたいな感じで検索したり、OBが就いた企業一覧で知らない名前のものをいちいち検索してみたりするのがよいかもしれません。

 

僕がゼミで教えている学生を見る限り、内定を取りまくるタイプには共通性があります。まず、自分にはコレが向いているとかアレがやりたいなどと言わず、自分はなんでもやれますという構えであること。次に、実際に自分はなんでもやってきました、と実績を示せるということ。一口で言えば「実績に裏打ちされたタフネスと柔軟さ」に尽きます。(p.144)

 

未来への希望より、過去における実績。拳拳服膺して下さい。理由は簡単。実績に自信を持つ人は、そうでない人に較べ、ヘタレに見せず、痛い感じがしません。レッドゾーンで活動したことがあるので、自分の限界を知っていて、可能な未来について適切に語れます。未来について適切に語るとは、第一に「限界を知らないがゆえに、限界を超えるんじゃないかとビビるようなヘタレ」にならないことを意味します。第二に、限界を知っているがゆえに、お門違いな高望みをしない(自己実現幻想を持たない)ことを意味します。(p.145)

 

逆に言えば、「ひとかどでない人間」がたまたまラッキーでどこかに就職できても、仕事上の成功は結局得られません。「ひとかどでない人間」が、たまたまラッキーでイイ女やイイ男に好かれても、プライベートでの実りは得られません。その意味で小手先のことは糞なのです。そんなこと言うけど「ひとかどの人物」になるにはどうしたらいいんだ? そうおもわれるかもしれない。当然です。答え。初期ギリシアの昔から推奨されてきたように、一番の近道は、「スゴイ奴」に地下より、時間と空間を長時間共有することで、感染してしまう方法です。(p.147)

 

実は「ひとかどの人物」になるという決意が大切です。決意が本気だと自動的に「スゴイ奴」を探すようになります。「スゴイ奴」を探すとは結局「人を幸せにしまくる奴を探すこと」「利他的な奴を探すこと」に行き着きます。(p.147)

 

  このあたりは自己啓発本と同じようなことが書かれていますが、僕もすごく実感していることです。この後、宮台氏は「宮台を感染させたスゴイ奴列伝」というのを発表するのですが、僕も何人か列伝できるほどにおります。ロールモデル。いま思えば消費的なロールモデルでしたが、消費以外のロールモデルがよくわからないので、それでよかったのかもしれません。

 

 本書には、大事なことがいくつも書かれており、読み応えというか、考え応えがありました。最後にコンテクストと先入観について書かれた部分を引用して終わりにします。

 

しーゆーれーらー

 

こうした先入観は多くの場合、自分の目で相手を評価することへの自信のなさに関連します。自分の目で相手を評価することに自信を持てなければなりません。むろん誰にだって先入観はつきものですが、相手が先入観通りなのかどうかを確かめてから前に進むべきです。もう少し踏み込んで言うと、先入観は、人物評価の障害になるだけでなく、話の中身(テクスト)とは別に、相手のその都度のコンディション(コンテクスト)への敏感さを、失わせます。逆に、こうした敏感さを働かせることで、先入観を中和していくこともできます。(p.210)

 

良い採用をする企業は、学生のどこを見ているのか。(…)TBSラジオは大きい企業ではありません。(…)改まった会議を持つのではなく、三人で常日頃話し合いながら毎年の採用方針を考えるそうです。採用にあたって改まった会議を持たないのがポイントです。会議の場ではコンテクストが死ぬからです。若い人材を観察しながら「こういう時は使えるけど、ああいう時は使えない」「TBSラジオの活気を支えているのはそういう人材だ」とやりとりし続けるのが肝心です。コンテクストを活かしたコミュニケーションというのは、半年後に同じことを言っても伝わらないというようなことです。(…)つまり、特殊な文脈をお互いに共有し合った者同士の個人的会話でなければ伝わらない情報が大切だということです。(p.217)