書籍大臣は虚構のなかで

書籍大臣と書いて、"ほんのおおおみ"と読みます。

(6)『文系? 理系? 人生を豊かにするヒント』 / 志村史夫

文系?理系?―人生を豊かにするヒント (ちくまプリマー新書) / 志村史夫(2009)

 

 文系や理系について考えているので、手にとってみたのですが、副題を見落としておりました――「人生を豊かにするヒント」。本著の内容は、学ぶとは何かという問いに一度も頭をぶつけたことがないような《学習未成年》のために編まれた書籍で、文系とは何か、理系とは何かという問いを、根源から何度も審問するようなタイプな本ではありません。

 

 そもそも「ちくまプリマー新書」というのは、ヤングアダルトに向けて入門的な内容の本を送り出す場所なので、哲学的な素養を期待するのは間違っていたかもしれないと思います。ただ、アマゾンレビューを見る限り、本著の内容に「満足」してしまっている人がおり、おそらくそれは著者の目指しているところではないと思うので、ここで読みなおしておきますね。

 

本書を通して、若い読者のみなさんにお伝えしたい私のメッセージは、つまるところ「豊かな人生を目指して、実現していただきたい」ということだったからです。(…)『広辞苑』の"豊かさ"の定義を読んで、私は愕然としたのです。私が思っていた"豊かさ"を日本を代表する国語辞典は少しも説明してくれていないのです。(…)私はすがるような気持ちで、ほかの国語辞典(『新明解国語辞典三省堂)にあたってみて、安心しました。そこには「①必要なものが十分に満たされた上に、まだゆとりが見られる様子。②いかにもおおらかで、せせこましさを感じさせない様子。(…)」と、私が思っていた"豊かさ"がそのまま説明されているのです。この中の「必要なもの」というのが重要です。何が「必要なもの」であるかは、人それぞれです。もちろん、それが「物」であっても「お金」であっても構いません。(p.187)

 

 夏目漱石を私淑しているみたいですが、文章は科学系のおじいちゃんそのものというか、読みにくくて、括弧も多くて強調したいことがわからなくなります。それはいいとして、豊かな人生を送って欲しい→豊かさとは必要なものが十分に満たされていることだ→その必要なものは人それぞれだということらしいのですが、本文中どこを読んでも、自分の信じる「ロジックのパワー」(きちんと筋道立てて考える科学的態度)こそが人生を豊かにするものだと主張しているようにしか感じません。

 

何事も自分自身の五感を実際に触れていれば、真贋、真偽の区別はそれほど難しいことではなく、また一時的に「誤解」したとしても、自分自身の五感で触れ続けている限り、そのような誤解はいずれ解けるのです。そして、さまざまな"詐欺"や"ニセ科学"に騙されないための最も強力な"武器"がきちんと筋道立てて考える科学的態度なのです。(p.39)

 

 科学の「センセイ」としての立場上、こう書かざるをえないとは思いますが、学ぶことの入門書でポジショントークをしてはならないだろうとも思います。豊かさというのは、別に、詐欺(志村氏は「労せず簡単に金儲けができる」とか「一日五分の努力で実用的な英語ができるようになる」とか「本が十倍速く読める法」などを挙げている)に騙されずに平穏な生活をすることだけとは限らないのです。

 

 つまり、騙されることが豊かさだという価値観だって認めなければ、本書の建前が崩れてしまいます。「強力な武器」とか言っちゃってますが、そこかしこに「私のように」という敬意の要請が見え透いており、せっかく面白いことも書いてある本なのに、嫌気で読めなくなりそうです。

 

 科学の言葉よりも、天文の言葉(主にスピリチュアルみたいなもの)で幸せになったり、豊かになる人のことを、もしかしたら知らないのかもしれませんね。ニセ科学を信じる人に関しては「一笑に付す」(p.38)などと書いているので、「わざわざ馬鹿にしないと入門書内で自分の敬意も保てない」方なのだと貧しい気持ちになります。この本を読んで、志村氏に入門した人には、どうか、ニセ科学を馬鹿にするのが科学的態度だと勘違いしないでもらいたいです。

 

 本著では、ゲーテだの、夏目漱石だの、ニュートンだの、チャップリンだのが召喚されて、自説を補強する形が頻繁にありますが、なぜニセ科学の文脈で、ウィーン学団の「あらゆる理論には未実証の部分があり、科学と疑似科学の区別は極めて難しい」を引用したり、科学者が自分の信条を前提に仮説を立てたりする「科学的リサーチプログラム」(ハードコア)を紹介したりしないのでしょうか。自分の都合のよい援用だけ行うのは、科学的態度なのだろうか、と問わずにいられません。

 

 地動説だって最初はニセ科学だったのに、いまでは常識になっています。偽物に騙されるなというのではなく、「ニセ科学の確証度を高めるために科学をやるのも面白いかもしれない」ぐらい余裕をもってもらいたいなとは思います。まあ僕ならニセ科学の確証度上げするなら、プロトサイエンスに手を付けてみたいと思いますが。

 

 志村氏に入門した人に対する注意をしてスッキリしました。著者の態度は偏重しておりますが、本書にはたくさんの「理系的雑学」が掲載されており、それを楽しむことで理系に興味を持ってみる(ことのできる)本です。しかし、そういう本はこれまでにたくさん出ており、この本がそれらより面白いかと言われると、そうでもありません。

 

 ただ、「私が数学できなかったのは学校のせいだ」「私が物理に興味を持てなかったのは授業のせいだ」という責任転嫁をしてスッキリしたい人にとっては、その道の権威(ネットでは御用学者と言われているがそれでも権威)が、数学が苦手で文科に進むステレオタイプの文系が多いのは学校のせいだと堂々と言っているのでぴったりでしょう。文系に進んだことを、自分の努力不足や「毎日やっていたことなのに関心を抱こうとしなかった知的好奇心のなさ」のせいにしたくない人がいたら、おすすめです。

 

 ひとつ、とても分かりやすくて使える記述があったので、メモ程度に引用して終わりますね。

 

 しーゆーれーらー

 

真言宗の開祖・空海はものの大きさや量が相対的であることを「ガンジス河の砂粒の数も、宇宙の広がりを考えれば多いとはいえば、また全自然の視野から見れば、微細な塵芥も決して小さいとはいえない」というたとえで述べています。(…)私たちは水を使う時、あるいは飲む時、それを構成する水滴や、さらにその水滴を構成する水分子や酸素原子のことをことを意識することはないのですが、いずれも視点を変えた場合の"姿"です。(p,102)