書籍大臣は虚構のなかで

書籍大臣と書いて、"ほんのおおおみ"と読みます。

(5)『夜は暗くていけないか』 / 乾正雄

夜は暗くてはいけないか―暗さの文化論 (朝日選書) / 乾正雄 (1998年)

 

 明るいことは善いことである――という前提を押し付けてくる人物と出会ったことはありませんか。明るい未来(が善い)、明るい性格の子(が善い)など、と。でも僕は暗いほうを好みます。そこそこ暗い未来、そこそこ暗い女の子、暗いほうが相性がいいんです。部屋の電気もつけない(そもそも取り付けていない)し、暗いほうが落ち着くし、暗いほうが頭も身体も健やかになる、そんな気がするんです。

 

f:id:nouvelle_book:20141204180023j:plain

 

 3年前にNASAが撮影(SUMOI NPP)した「Black Marble」の写真。夜のあいだに、地球上のどこがどのぐらい光っているのか分かります。これを「美しい!」みたいな感じで拡めている人がたくさんいるのですが、夜光っているのは人工的なものとオーロラだけで、あとは暗いのだということを「思い出させてくれる」写真です。

 

 「動物や植物を保護(愛護)するべきだ」というのなら、こういった夜の過剰な光を規制するべきだと思うのですが、どうも人間は自分の都合しか理解していないので、寂しくなってしまいます。

 

 愚痴はほどほどにして、乾正雄さんは「建築環境工学」を専門としている学者さんで、主に「音・光・色・熱・空気」などが人間生活にどのような影響をもたらすのかなどについて研究されている方です。そんな方が上梓した《暗さの文化論》が本著となります。

 

 内容は、ご自身の専門畑でもある「建築」にまつわる話が多く、ここでは取り上げませんでしたが「石の家」「ロマネスク教会の光と影」「照明の変遷」「オフィスビルの採光と照明」という項目があって、その分野の勉強によいでしょう。

 

ただし、休息といっても、摂食や生殖などの軽い動きは残る。暗い中でも能動的な行動をやめるわけではない。暗さが十分に濃くなると、眼を閉じて眠るかにいたり、やっと杆体も休めるようになる。暗くて、身体の動きも少ないが、しかし眠くないときがある。人間がものを考えるのはそういうときだ。外界の刺激は、光にかぎらず五感のすべてで最小になっていて、眼には、黒く、ぼんやりしたときには青みがかった映像が映っている。思考は内へ向かわざるをえない。哲学はおそらくそういう状況からはじまったのではないか。(…)暗さは人にものを考えさせるのだ。(p.53)

 

 暗いところで人は自然にものごとを考える――考えすぎるのもよくないものです。考えれば考えるほど、人間は精神的に老いていきますが、その老化に身体や環境が適合していなければ、本人は困惑の淵に転け落ちていきます。それが思春期に重なりやすく、13歳前後の理由不明の自殺が多いそうです。(明るい家庭というものにも功罪があるということを知っておかなければならないでしょうね)。

 

しかし、闇は快楽も演出する。真の闇ではないだろうが、闇は恋愛描写や芝居の濡れ場にも出てくる。お化けごっこ、線香花火、蛍狩りなどの背景としても不可欠である。もっと日常的な情景では、暗い夜道を歩くことだけでも、闇の体験の意味があったのではないか。感受性の豊かな子どものとき、超自然的な生きものに追いかけられるようなこわさを知ることは、人の一生を夢の多いものにしただろう。ほんとうに真っ暗なところでは、顔のまえに自分の手をかざしても見えない、いわば自分の存在が視覚的に認められないのだが、そんな事実も知っているだけ貴重だったのだ。真の闇がどこにでもあった昔は、だれもそんなものにありがたみなど感じなかったろうが、今、真の闇には希少価値がある。(p.160)

 

 これを読んでいるときに、「ぼくの暗闇経験って何だろう」って思い出そうとしたのですが、いちばん出てくるのは「布団の中」なんですよね。印象的なものとしては、夜の京都の山を歩いたり、西東京のさらに西の山の地帯を夜に歩いたことなんかもあります。園児のときに鍾乳洞こわすぎて号泣した経験もあるし、記憶を失くしたときに時間というものが本当に真っ暗になったときもあります。

 

 著者は、しきりに「日本は明るすぎる(建築の照明がずっと明るさを求めてきて、それがようやく達成されたからだ)」という主張を繰り返します。僕もそれにはおおむね賛同していて、家を意識的に暗くしているし、日が沈んでも明かりを点けないなんてこともしばしば。家を探すときも「勉強のための環境」として暗さを重視したり、図書館で本を読むときもできるだけ暗がりを探す習性があったりします。

 

人間の眼は、晴れていてしかも暗い夜、星空を一番楽しめるようにできている。眼の感度の下限がそうなっているのだ。もし、感度が今の百分の一だったら、星はほとんど見えず、おそらく人間は「星」という言葉を持たなかっただろう。逆に、もし感度が百倍あったら、われわれは無数の星が狂うように光り輝く夜空の下で、不眠症になっただろう。(…)夜は暗くていけないか、と問われると、だれでも一瞬動揺するだろう。なるほど都会の夜が明るいのは楽しく便利だが、暗い夜もあっていいはずだ、暗い夜には現代人が捨て去っただいじなものがありそうだ、と直観的にわかるからである。(p.184)

 

 僕が「星」という言葉を知っているのは、ちょうどよい深さの暗さがあったからだという再発見。もちろん筆者は、明るいことが悪いことだといいたいわけではなくて、どのページを読んでいても、かなり中立的に書こうという姿勢がみられます。

 

 最後に、一番よかったなって思ったところを引用して、終わります。ありがとうございました。

 

しーゆーれーらー

 

日没の瞬間、太陽は地平線からすっぽりかくれる。しかし、このとき突然真っ暗になるのではないことは、だれだって知っている。全天空照度はすでに正午をピークとして、わずかずつだが下がってきている。しかし、ふつう人は暗くなっているのに気がつかない。日没一時間くらいまえになって、やっと暗さを意識するくらいのところだろう。日没直前ごろから薄明に入る。そのころから暗くなるスピードが増すので、人は暗さがすすむのをはっきり感じる。薄明は、照明学では興味ある時間帯で、眼が暗さに追いつかないからものは見えにくく、電灯をつけても夜ほどは効果が上がらず、やはりものは見えにくい。だが、薄明は、個々のものを埋没させてしまう代わりに、視界全体をまどろむように美しく見せる。(p.64)