書籍大臣は虚構のなかで

書籍大臣と書いて、"ほんのおおおみ"と読みます。

(7)『宮台教授の就活原論』 / 宮台真司

宮台教授の就活原論 (ちくま文庫) / 宮台真司(2011)

 

 「理不尽な就活を強いるデタラメな社会を生き抜くために、就活の原理を学ぶ本」――表紙にそう書いてあります。宮台氏がこの手の本を書くなら、どういうことを書くのか想像できてしまうほど、若い頃に宮台氏の本を読みました。ネットでは悪評判の多い氏ですが、発想のキレが本当によいです。その分、ロジックが物足りなく感じるときもありますが、それを差し引いても読んでいて面白いものが多いので、おすすめいたします。

 

 宮台氏は社会学者ということになっておりますが、「80年代で最も勉強した学者のうちのひとりであるところの発想オモシロ知的おじさん」ぐらいに思っておくと、とても親しく読めると思います。できるだけ僕なりに解説していきますが、ついていけないときは無視しましょう。そういう読み方で大丈夫です。

 

社会はいいとこ取りができないと言いました。人生もいいとこ取りはできません。何事につけいいとこ取りはできないのです。だから、何事につけても、「これさえあればOK」というものはなく、逆に、「これがあればもう絶対ダメ」というものもありません。(…)だから、本書を読む時にもあんまりカリカリしないほうが良い。僕たちの就活時代よりもゆるく構えるべきなのです。それよりも、就活がどうなろうが揺るぎない帰還場所=出撃基地(ホームベース)を作り、不安ベースより内発性ベースで進むほうが良いです。(p.227)

 

グローバル化、つまり資本移動自由化が進めば国際市場で新興国が台頭し、平均利潤率均等化の法則に従って労働分配率が下がります。同時に、企業寿命も確実に短くなります。親の世代――つまり僕の世代――の就職イメージを真に受けていたら、過剰に不安になります。(…)今後は、市場や国家に《依存》するのも危ないし、巨大企業に《依存》するのも危ないし、電力会社の地域独占供給に《依存》するのも危ないし、親や周囲の承認に《依存》するのも危ない。《依存》せずに《自立》するための帰還場所=出撃吉が必要です。だから、就活マニュアルに《依存》するのも危なく、従って本書に《依存》するのも危ない。本書が必要とされること自体が、社会的包摂生の欠如という意味で健全ではありません。本来はコモンセンスであるべきだし、コモンセンスを継承する社会があるべきです。(p.228)

 

 宮台氏の「ホームベース」という概念はとても分かりやすいから、ついつい「なるほど」と言ってしまいそうになります。ですが、ここでは正直に「分からない」と言うべきです。今の時代を生きる若い人であれば、ほとんどの人がホームベースを経験したことがないのではないかと思います。そんな状態で、やすやすと「分かった」というと、分からないまま終わってしまいます。

 

 無条件で受け入れてくれる場所というのは、昭和世代にとって、「絆=関係を縛りつけるものとしての履歴」を作れた家族であったり、親友であったりしたでしょうけれど、コミュニケーションが「空洞化」した現代において、 そういう履歴は作りにくくなっております。恋人でも親友でも、(痛いところをついて)傷つけたり、(期待や幻想を)裏切ったら、それで「ブロック」となり、終わりになってしまうんです。2ch的というか、そういうネット的な付き合いをリアルでも再現してしまっているのです。

 

 傷ついたり、裏切られたり、そういう失敗の経験こそ「関係の履歴」になっていくのですが、それとは逆の方向に進もうとしている若い人たち――なおかつ他の世代との交流を断っている若い人たち――にとって、ホームベースとなる場所は、いったいどこにあるでしょうか。おそらく「分からない」と思います。宮台氏も、私も、分かりません。あなたが自分の現実のなかで考え抜き、答えを生み出し、生きていくしかありません。

 

 同居人が文芸誌で書いてた「@各位 ラブやで〜」という概念も、ホームベースという概念と親和性が高そうだから、こんどじっくり考えてみます。(ラブやで〜の概観については、『「ラブやで〜」の連鎖』を参照してください)。

 

 学者らしく「社会的包摂」(Social Incusion)という難しい言葉を使っていますが、簡単にいえば「生きることが困難な人も排除しない社会がある状態」のことです。

 

 グローバル化のことですが、要するに、経済がどんどん自由になって、みんなが海外の安い労働力を求めていけば、スキルを持っていない日本人、特別な価値を持っていない企業、そういうものはどんどん不要になっていくということです。そういう現象を「コモディティ化」(日用品化)ともいうので、ぜひ調べてみてくださいね。

 

 いまのは本のあとがきでしたが、まえがきに戻ります。

 

 

東日本大震災で)救援物資の末端配分と、被災地と周辺地域の学童疎開が、人間関係資本(Social Capital)の欠落ゆえに困難に陥ったことが明白になったこともあって、とりわけ「共同性の不可能性と不可避性」――共同性が不可能でも追求せずにはいられないこと――についての意識が高まりました。平時を前提にした市場や国家など巨大システムへの過剰依存が、非常時に問題をもたらすこと。それを回避するには市場や国家への過剰依存を抑制した共同体自治しかあり得ないこと。これらも認識され始めました。温かさ云々よりも、安全保障としての共同体自治です。(p.5)

 

巨大システムへの依存で便益が調達できるがゆえに普段は見過ごしてしまいやすい、人間関係資本のありがたみ。それを改めて実感すると同時に、人間関係資本を存分に用いた活動を展開すること自体にもレベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』的な明るさがありました。「災害ユートピア」とは、災害になると普段利用しているシステムが全く利用できなくなるので、システムを前提にした地位役割が無効化し、代わりに完全平等と利他性を二要素とする共同空間が前景化することをいいます。(…)自分の日々の振る舞いが、脆弱なシステムを前提にしたものでしかないという事実を思えば、消沈します。《従来のゲームが前提に充ち満ちたものだという感覚》は人を抑鬱的にします。(p.6)

 

《従来のゲームが前提に充ち満ちたものだという感覚》が、僕の周囲にいる学生たちの多くを就活から撤退させました。(…)彼らは口々に「就職活動をしている場合じゃない」「就活の気力がなくなった」と言いました。様々な願望が、試練にかけられることによって、素朴な願望から再帰的な願望に変わり、さもなければ想定不可能だった事態に大して願望が免疫されて、タフになり得ます。できるだけ多くの学生が、願望の断念ではなく、願望の再帰化に至ってほしいと思います。ここでいう再帰性とは「△△を願望することを願望する」という構えです。「敢えて願望する」とも言い換えられます。震災の前と後で就職に係る願望の内容が変わるのは自然ですが、単なる内容変更に留まらず、再帰的願望への昇格が望ましいと言いたいのです。願望の再帰化をもたらす《従来のゲームが前提に充ち満ちたものだという感覚》ゆえに、巷の就活本のデタラメぶりが際立つように成りました。就活本の大半は自己啓発本です。あとがきでも触れましたが、多かれ少なかれ自己啓発手法(Awareness Training Method)を取り込んでいます。僕はかねて自己啓発手法的な就活本に違和感を頂いてきました。(…)一口で言えば《癒やしを提供しつつ、デタラメな企業社会への適応を促すこと》への違和感。本書は、この違和感を出発点にしています。(p.7)

 

 野球をやってたのに、サッカーのルールになること。オセロをしていたのに、チェスのルールになること。僕たちは、好むと好まざると、そういう「デタラメなゲームのプレイヤーである」ということを強調します。そんなデタラメな変更があったときでも、これだけは信頼できるというホームベースが必要なのです。

 

 宗教というのは、「神と私」という関係を内面化して(インストールして)、どんなことがあっても絶対に揺るがない場所とすることができます。そういった意味で、ホームベースになっていますね。要するに、何でもいいのです。知恵を絞り、自分が何をホームベースにするのか考え抜き、そして最後に決めるのです。

 

人の能力は多面的です。あたまの良さもいろいろに理解できます。でもそれを横に置いて、受験勉強で良好な成績を残す力さえあれば、企業に入っても企業ごとに必要なことを教え込めると思われていたのです。これを前述のパーソンズの図式で捉えます。「どの大学や学部に入ったか」までは業績主義です。ところが採用の段になると業績が属性に変換されるのです。業績だったはずの学歴が、就職を境に属性に変わり、本人の意志では変えられない何かに変じるのです。(p.25)

 

 業績というのは、自分の努力によって変動するものです。どこかの大学のどこかの学部に合格するということは、自分の努力によってレベルが変わってくるのですが、それは入った瞬間までであり、入った後、特に就活のときに、自分の努力では変えることのできないもの(属性)になってしまうということです。そういう途方もない余計な変化を受け入れなければ、就活はできないのかもしれませんね。

 

企業とは、メンバーシップを含めて、「定常状態」(constancy)あるいは「動的な均衡」(dynamic quilibility)を保つシステムであり、環境が変化すればそれに応じてどのようにも変化する何ものかだ、というふうに理解されるようになりました。そこでは目標さえも取り替え可能になります。定常状態を保つために必要であれば、人員のみならず、目標さえも取り替えられます。和菓子の最上屋が、ビスケットメーカーとも氷菓メーカーともつかない北日本食品工業となり、やがて洋菓子のブルボンになるのです。花札屋だった任天堂が、今ではゲーム機のメーカーであり、あるいは公共的目的で利用される端末のメーカーです。ミシンのメーカーだったブラザーは、今ではプリンターやファックスなどの事務機器のメーカーです。(p.26)

 

企業側も、10年後に何を作っているか、どんなサービスを提供しているか、定かではない状況で人材を採用しなければなりません。その意味で、それなりにつぶしが効く――正確に言えば「適応力」のある――人材を採らなければなりません。かつて企業は皆さんに「適応」を求めました。企業も企業文化も「変わらない」「変わりにくい」ことを前提としたからです。今は違う。企業も企業文化も、企業存続のために変わるかもしれない。だから「適応」ではなく「適応力」を求めざるを得ないのです。(p.29)

 

従来の受験勉強で獲得可能な学歴は、「適応」を示しますが「適応力」を全く示しません。当然、企業が合理的であれば、採用において、単に学歴を頼るわけにはいかなくなります。(…)東大を卒業したから安心だ、といった学閥時代の構えはあり得なくなるということです。「せめて学歴だけは付けてあげたい」として「お受験」に勤しむ親たちは、その意味で単なる「馬鹿」であることになります。皆さんに馬鹿が感染(うつ)っていないでしょうか。(p.30)

 

 (うちの親がまさにそうでしたし、僕はそれが嫌で入学だけして中退したのですが)親が学歴を付けてあげたいと思う心理は、きっとかなり複雑なものだろうと感じております。僕の親はバブルを生きた人間なので、勉強するなんて頭がおかしいという時代のなかで生きてきたと自分で言っていました。情報の扱い方も分からないのに、やれ就職難民だの、やれ学歴社会だの、職場やワイドショーでいろいろな情報に触れ、《自分では全く経験したことのないこと》を子どものために判断しなければならないとなったときに、「とりあえず無難に」学歴を付けておこうと思うのでしょう。それに同情するつもりはありませんが。

 

 さて、変化する環境を前提にした適応力というのは何のことなのでしょうか。

 

分かりやすく言えば、「年長世代の自明性を破らない能力」ではなく、「年長世代の自明性を破る提案を連発しつつ、相対的に人間関係を台無しにしないで済ませる能力」が重要になります。抽象的に言えば「定常性の内側により多様なものを包摂する能力」です。(p.32)

 

社会システム理論では「区別」と「観察」を分けます。「区別」とは差異の線を引くことです。「観察」とは差異の線を引いた上で線の両側のどちらか一方を「指示」することです。適切な「区別」なくして、適切な「観察」はあり得ません。(…)噛み砕いて言えば、自分と相手の違いがどこにあるのか、自分の要求と相手の要求の違いがどこにあるのか、自分の視座や視界と相手の視座や視界との違いがどこにあるのか、ちゃんと把握できなければなりません。どちらの要求が適切なのか、どちらのモノの見方が適切なのか、という判断つまり「観察」は必ずしも拙速に行う必要はありません。むしろ時間をかけても良い。ただ「区別」はできれば瞬時ないしリアルタイムに遂行できることが望ましいです。なぜなら、その分「どちらが良いか」を評価する作業に時間をかけられるからです。先ほど紹介した「人間関係を台無しにせずに異論を述べる能力」の前提にもなる、今日最も重大なコミュニケーション能力、それは「相手を理解する能力」であると断言できます。(p.33)

 

(1)「大前提として、人間関係を台無しにしない」

(2)「年上の人たちが当たり前だと思っていることをぶち破っていく提案をする」

(3)「こちら側と向こう側の違いを正しく理解し、線引きを正確に行う」

(4)「そのどちら側を採用するのが最善なのか判断する」

 

――そういう能力のことを、総じてコミュニケーション能力というそうです。それがどうすれば身につくのか、なかなか難しいことですね。僕は運が良かったので、そういう能力がある人に「何を考えながら何をしているのかリアルタイムに解説してもらった」経験があります。バイト先に「デキる先輩」がいた人は、多かれ少なかれそういう経験があるのではないでしょうか。

 

でも、年長世代の方々が当然のように踏襲して来られた生き方を、これからの若い人たちが選ぶことは絶望的に困難です。(…)会社への所属に感情的安全を求めるのはもはや無理です。経営環境も労働市場も極めて流動的な中で生き残りを迫られているのです。そんな彼らを相手に「分相応に、まじめにこつこつ働けば必ず報われるよ」などと説くわけには、到底いかないのです。僕は何も「仕事での自己実現」は絶対にあり得ないと言いたいのではありません。まじめにこつこつが馬鹿げていると言いたいのでもない。言いたいのは「仕事での自己実現」を求めても、まじめにこつこつ働いても、報われる可能性が低いという事実です。そんな可能性の低いことに賭けるよりも、勤め先が倒産したり売上げ減で給料が下がったりして仕事で不本意な目に遭っても、承認から見放されず尊厳(自己価値)を手放さなくて済むような関係性を――つまり本拠地を――仕事意外の場で構築維持するほうが合理的です。(p.51)

 

 「自分に向けられた自分の感情(自己尊厳)を守るのが先、仕事を通じて叶えたい夢を実現するのは後」――そういう教訓を親が教えてくれたらいいのですが。

 

就職活動中の学生に「就活をしていて疑問に思うことは?」と尋ねると、よく出てくるキーワードが「嘘」です「『弊社が第一志望ですか?』と聞かれて嘘をつくべきかどうか迷った」「この企業に本当に入りたいのか、自分に嘘をついているのではないか」云々。待ってください。求められているのは、①その企業への就職によって実現したい何かがあり、それゆえに②状況に応じて機会主義的(臨機応変)に振る舞えるような人材です。機会主義的な振る舞いは、他者性(他者の視座に立つ能力)や迂回路の選択能力などを前提としています。そういうことを期待された人が「嘘をついていいか」などと悩むべきでしょうか。そんなことを言い出す学生は、①実現したい何かを大目標として持っていないか、それゆえに、②大目標のために状況しだいでなんでもするという覚悟が定まっていないか、どちらかだと思います。(p.58)

 

 僕はフリーランスで働いているのですが、僕みたいな人物にも刺さる――というか、状況次第でなんでもするという覚悟を決める後押しになる――話でした。翻訳の専門分野とかを聞かれるときの、ビジネスセンスというものに悩んでいたので、鵜呑みにするわけではないけれど、ああ、それが答えだなという感覚を得た気がします。

 

僕が面接担当なら、そう言う学生がいたら直ちに、ボロボロになった君には帰還する場所があるかと尋ねます。帰還場所があれば君は言葉通りに振る舞えるだろうが、帰還場所がなければ、口で何を言おうが、君には頑張りが利かない。実際どうなんだ、と尋ねます。帰還場所があると答えたら、今度はこう尋ねます。だったら君は、わざわざ限界を試す必要なんかないじゃないか。おカネがなくても、仲間とそれなりに楽しく戯れて生きていけるじゃないか。楽しく戯れて生きるだけじゃ、いったい何が足りないと思うのか、と。(…)自己実現に向けた強い動機がある場合には、それによって埋め合わされねばならない不安や空隙があるのではないか、と疑うのが自然になります。(…)とはいうものの、不安や空隙を否定的に評価しているわけではありません。(…)僕はただ、追い込まれた末の自発性を、内発性と取り違える愚を避けてほしいのです。(p.62)

 

 「われわれは何に切迫しているのか、あるいは何に切迫するだろうか」という問いを思いつきました。差し迫る不安というのは、どこからくるのでしょうか。かつて「夜と逃走についての断章」で書いた内容とつながるかもしれませんね。

 

長い間学生たちの就職活動を見て来て感じるのは、学生側の適職幻想が非常に強くなったことです。(…)「自分はこういう人間だから、こういう仕事が向き、別の仕事には向かない」という思い込みです。学生たちは「自分の人格的な本質さえ掴めれば、それに合った最適な仕事が見つかるはずだ」と考えるわけです。これはナンセンスです。10年前までランドセルを背負っていた人間に、自分の人格的な本質など判るはずがないし、その程度の若い人間は十分に可塑的で、その後の人生経験を通じて人は十分に変わり得るからです。「自分はこういう人間だから」などというのは、自意識にすぎません。(p.104)

 

僕は単純に、学生たちの選択肢が増えるのは良いことだ、不完全情報よりも完全情報のほうが良いはずだと思っていました。それが合理的に決まっていると思った。でも、性愛コミュニケーションと同じで、選択肢が増え過ぎると人々は混乱し始めます。性愛でも就職でも「最適マッチング幻想」が蔓延した結果、「もっと良い選択肢があるはずだ」と永久に迷い続け、全選択に失敗するようになりました。(p.111)

 

 まあ、大のオトナがこぞって「ぴったりの仕事がある」と言うもんだから、ランドセルブランク10年の若い人たちは、(なにせ「いい子」を育てることに成功したのだから)そういうものがあるんだろうと信じてしまうだろうし、そういう幻想をどの段階で、誰に、どんな出来事に打ち砕かれるのか、というのがそれぞれの人生経験かもしれませんね。

 

当然ながらテレビなどでの広告に登場するのは、専らBtoCの企業になります。テレビ広告が振りまくイメージに影響されて就職活動する学生は、BtoBの企業に目が向きにくくなります。(…)大学生にもなってBtoB企業とBtoC企業の識別もできず、消費者広告に登場するのがBtoCの企業ばかりであることを知らないというのは、頭が悪すぎます。会社四季報』にあたり、財務諸表を検討する、などして初めて優良企業か否かが判るのです。(p.128)

 

2008年頃から業績が悪化した企業による内定取り消しが社会問題化していて、世間は同情的ですが、多くの場合、僕は学生に同情しません。『会社四季報』や『帝国データバンク』などを読まず、イメージ先行で就職先を決めている学生が大半だからです。(p.129)

 

 そもそもブラインドシフトしにくいBtoB(消費者ではなく法人向けの製品を売る企業)の方が安定しているのですから、そちらのほうが良さそうにも思えます。僕なら知名度が低いけれど優良な企業に入って、そこでやりたいことをやるための土台を作る就活をします。BtoB企業の探し方としては、「アップル 取引先」みたいな感じで検索したり、OBが就いた企業一覧で知らない名前のものをいちいち検索してみたりするのがよいかもしれません。

 

僕がゼミで教えている学生を見る限り、内定を取りまくるタイプには共通性があります。まず、自分にはコレが向いているとかアレがやりたいなどと言わず、自分はなんでもやれますという構えであること。次に、実際に自分はなんでもやってきました、と実績を示せるということ。一口で言えば「実績に裏打ちされたタフネスと柔軟さ」に尽きます。(p.144)

 

未来への希望より、過去における実績。拳拳服膺して下さい。理由は簡単。実績に自信を持つ人は、そうでない人に較べ、ヘタレに見せず、痛い感じがしません。レッドゾーンで活動したことがあるので、自分の限界を知っていて、可能な未来について適切に語れます。未来について適切に語るとは、第一に「限界を知らないがゆえに、限界を超えるんじゃないかとビビるようなヘタレ」にならないことを意味します。第二に、限界を知っているがゆえに、お門違いな高望みをしない(自己実現幻想を持たない)ことを意味します。(p.145)

 

逆に言えば、「ひとかどでない人間」がたまたまラッキーでどこかに就職できても、仕事上の成功は結局得られません。「ひとかどでない人間」が、たまたまラッキーでイイ女やイイ男に好かれても、プライベートでの実りは得られません。その意味で小手先のことは糞なのです。そんなこと言うけど「ひとかどの人物」になるにはどうしたらいいんだ? そうおもわれるかもしれない。当然です。答え。初期ギリシアの昔から推奨されてきたように、一番の近道は、「スゴイ奴」に地下より、時間と空間を長時間共有することで、感染してしまう方法です。(p.147)

 

実は「ひとかどの人物」になるという決意が大切です。決意が本気だと自動的に「スゴイ奴」を探すようになります。「スゴイ奴」を探すとは結局「人を幸せにしまくる奴を探すこと」「利他的な奴を探すこと」に行き着きます。(p.147)

 

  このあたりは自己啓発本と同じようなことが書かれていますが、僕もすごく実感していることです。この後、宮台氏は「宮台を感染させたスゴイ奴列伝」というのを発表するのですが、僕も何人か列伝できるほどにおります。ロールモデル。いま思えば消費的なロールモデルでしたが、消費以外のロールモデルがよくわからないので、それでよかったのかもしれません。

 

 本書には、大事なことがいくつも書かれており、読み応えというか、考え応えがありました。最後にコンテクストと先入観について書かれた部分を引用して終わりにします。

 

しーゆーれーらー

 

こうした先入観は多くの場合、自分の目で相手を評価することへの自信のなさに関連します。自分の目で相手を評価することに自信を持てなければなりません。むろん誰にだって先入観はつきものですが、相手が先入観通りなのかどうかを確かめてから前に進むべきです。もう少し踏み込んで言うと、先入観は、人物評価の障害になるだけでなく、話の中身(テクスト)とは別に、相手のその都度のコンディション(コンテクスト)への敏感さを、失わせます。逆に、こうした敏感さを働かせることで、先入観を中和していくこともできます。(p.210)

 

良い採用をする企業は、学生のどこを見ているのか。(…)TBSラジオは大きい企業ではありません。(…)改まった会議を持つのではなく、三人で常日頃話し合いながら毎年の採用方針を考えるそうです。採用にあたって改まった会議を持たないのがポイントです。会議の場ではコンテクストが死ぬからです。若い人材を観察しながら「こういう時は使えるけど、ああいう時は使えない」「TBSラジオの活気を支えているのはそういう人材だ」とやりとりし続けるのが肝心です。コンテクストを活かしたコミュニケーションというのは、半年後に同じことを言っても伝わらないというようなことです。(…)つまり、特殊な文脈をお互いに共有し合った者同士の個人的会話でなければ伝わらない情報が大切だということです。(p.217)

 

(6)『文系? 理系? 人生を豊かにするヒント』 / 志村史夫

文系?理系?―人生を豊かにするヒント (ちくまプリマー新書) / 志村史夫(2009)

 

 文系や理系について考えているので、手にとってみたのですが、副題を見落としておりました――「人生を豊かにするヒント」。本著の内容は、学ぶとは何かという問いに一度も頭をぶつけたことがないような《学習未成年》のために編まれた書籍で、文系とは何か、理系とは何かという問いを、根源から何度も審問するようなタイプな本ではありません。

 

 そもそも「ちくまプリマー新書」というのは、ヤングアダルトに向けて入門的な内容の本を送り出す場所なので、哲学的な素養を期待するのは間違っていたかもしれないと思います。ただ、アマゾンレビューを見る限り、本著の内容に「満足」してしまっている人がおり、おそらくそれは著者の目指しているところではないと思うので、ここで読みなおしておきますね。

 

本書を通して、若い読者のみなさんにお伝えしたい私のメッセージは、つまるところ「豊かな人生を目指して、実現していただきたい」ということだったからです。(…)『広辞苑』の"豊かさ"の定義を読んで、私は愕然としたのです。私が思っていた"豊かさ"を日本を代表する国語辞典は少しも説明してくれていないのです。(…)私はすがるような気持ちで、ほかの国語辞典(『新明解国語辞典三省堂)にあたってみて、安心しました。そこには「①必要なものが十分に満たされた上に、まだゆとりが見られる様子。②いかにもおおらかで、せせこましさを感じさせない様子。(…)」と、私が思っていた"豊かさ"がそのまま説明されているのです。この中の「必要なもの」というのが重要です。何が「必要なもの」であるかは、人それぞれです。もちろん、それが「物」であっても「お金」であっても構いません。(p.187)

 

 夏目漱石を私淑しているみたいですが、文章は科学系のおじいちゃんそのものというか、読みにくくて、括弧も多くて強調したいことがわからなくなります。それはいいとして、豊かな人生を送って欲しい→豊かさとは必要なものが十分に満たされていることだ→その必要なものは人それぞれだということらしいのですが、本文中どこを読んでも、自分の信じる「ロジックのパワー」(きちんと筋道立てて考える科学的態度)こそが人生を豊かにするものだと主張しているようにしか感じません。

 

何事も自分自身の五感を実際に触れていれば、真贋、真偽の区別はそれほど難しいことではなく、また一時的に「誤解」したとしても、自分自身の五感で触れ続けている限り、そのような誤解はいずれ解けるのです。そして、さまざまな"詐欺"や"ニセ科学"に騙されないための最も強力な"武器"がきちんと筋道立てて考える科学的態度なのです。(p.39)

 

 科学の「センセイ」としての立場上、こう書かざるをえないとは思いますが、学ぶことの入門書でポジショントークをしてはならないだろうとも思います。豊かさというのは、別に、詐欺(志村氏は「労せず簡単に金儲けができる」とか「一日五分の努力で実用的な英語ができるようになる」とか「本が十倍速く読める法」などを挙げている)に騙されずに平穏な生活をすることだけとは限らないのです。

 

 つまり、騙されることが豊かさだという価値観だって認めなければ、本書の建前が崩れてしまいます。「強力な武器」とか言っちゃってますが、そこかしこに「私のように」という敬意の要請が見え透いており、せっかく面白いことも書いてある本なのに、嫌気で読めなくなりそうです。

 

 科学の言葉よりも、天文の言葉(主にスピリチュアルみたいなもの)で幸せになったり、豊かになる人のことを、もしかしたら知らないのかもしれませんね。ニセ科学を信じる人に関しては「一笑に付す」(p.38)などと書いているので、「わざわざ馬鹿にしないと入門書内で自分の敬意も保てない」方なのだと貧しい気持ちになります。この本を読んで、志村氏に入門した人には、どうか、ニセ科学を馬鹿にするのが科学的態度だと勘違いしないでもらいたいです。

 

 本著では、ゲーテだの、夏目漱石だの、ニュートンだの、チャップリンだのが召喚されて、自説を補強する形が頻繁にありますが、なぜニセ科学の文脈で、ウィーン学団の「あらゆる理論には未実証の部分があり、科学と疑似科学の区別は極めて難しい」を引用したり、科学者が自分の信条を前提に仮説を立てたりする「科学的リサーチプログラム」(ハードコア)を紹介したりしないのでしょうか。自分の都合のよい援用だけ行うのは、科学的態度なのだろうか、と問わずにいられません。

 

 地動説だって最初はニセ科学だったのに、いまでは常識になっています。偽物に騙されるなというのではなく、「ニセ科学の確証度を高めるために科学をやるのも面白いかもしれない」ぐらい余裕をもってもらいたいなとは思います。まあ僕ならニセ科学の確証度上げするなら、プロトサイエンスに手を付けてみたいと思いますが。

 

 志村氏に入門した人に対する注意をしてスッキリしました。著者の態度は偏重しておりますが、本書にはたくさんの「理系的雑学」が掲載されており、それを楽しむことで理系に興味を持ってみる(ことのできる)本です。しかし、そういう本はこれまでにたくさん出ており、この本がそれらより面白いかと言われると、そうでもありません。

 

 ただ、「私が数学できなかったのは学校のせいだ」「私が物理に興味を持てなかったのは授業のせいだ」という責任転嫁をしてスッキリしたい人にとっては、その道の権威(ネットでは御用学者と言われているがそれでも権威)が、数学が苦手で文科に進むステレオタイプの文系が多いのは学校のせいだと堂々と言っているのでぴったりでしょう。文系に進んだことを、自分の努力不足や「毎日やっていたことなのに関心を抱こうとしなかった知的好奇心のなさ」のせいにしたくない人がいたら、おすすめです。

 

 ひとつ、とても分かりやすくて使える記述があったので、メモ程度に引用して終わりますね。

 

 しーゆーれーらー

 

真言宗の開祖・空海はものの大きさや量が相対的であることを「ガンジス河の砂粒の数も、宇宙の広がりを考えれば多いとはいえば、また全自然の視野から見れば、微細な塵芥も決して小さいとはいえない」というたとえで述べています。(…)私たちは水を使う時、あるいは飲む時、それを構成する水滴や、さらにその水滴を構成する水分子や酸素原子のことをことを意識することはないのですが、いずれも視点を変えた場合の"姿"です。(p,102)

(5)『夜は暗くていけないか』 / 乾正雄

夜は暗くてはいけないか―暗さの文化論 (朝日選書) / 乾正雄 (1998年)

 

 明るいことは善いことである――という前提を押し付けてくる人物と出会ったことはありませんか。明るい未来(が善い)、明るい性格の子(が善い)など、と。でも僕は暗いほうを好みます。そこそこ暗い未来、そこそこ暗い女の子、暗いほうが相性がいいんです。部屋の電気もつけない(そもそも取り付けていない)し、暗いほうが落ち着くし、暗いほうが頭も身体も健やかになる、そんな気がするんです。

 

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 3年前にNASAが撮影(SUMOI NPP)した「Black Marble」の写真。夜のあいだに、地球上のどこがどのぐらい光っているのか分かります。これを「美しい!」みたいな感じで拡めている人がたくさんいるのですが、夜光っているのは人工的なものとオーロラだけで、あとは暗いのだということを「思い出させてくれる」写真です。

 

 「動物や植物を保護(愛護)するべきだ」というのなら、こういった夜の過剰な光を規制するべきだと思うのですが、どうも人間は自分の都合しか理解していないので、寂しくなってしまいます。

 

 愚痴はほどほどにして、乾正雄さんは「建築環境工学」を専門としている学者さんで、主に「音・光・色・熱・空気」などが人間生活にどのような影響をもたらすのかなどについて研究されている方です。そんな方が上梓した《暗さの文化論》が本著となります。

 

 内容は、ご自身の専門畑でもある「建築」にまつわる話が多く、ここでは取り上げませんでしたが「石の家」「ロマネスク教会の光と影」「照明の変遷」「オフィスビルの採光と照明」という項目があって、その分野の勉強によいでしょう。

 

ただし、休息といっても、摂食や生殖などの軽い動きは残る。暗い中でも能動的な行動をやめるわけではない。暗さが十分に濃くなると、眼を閉じて眠るかにいたり、やっと杆体も休めるようになる。暗くて、身体の動きも少ないが、しかし眠くないときがある。人間がものを考えるのはそういうときだ。外界の刺激は、光にかぎらず五感のすべてで最小になっていて、眼には、黒く、ぼんやりしたときには青みがかった映像が映っている。思考は内へ向かわざるをえない。哲学はおそらくそういう状況からはじまったのではないか。(…)暗さは人にものを考えさせるのだ。(p.53)

 

 暗いところで人は自然にものごとを考える――考えすぎるのもよくないものです。考えれば考えるほど、人間は精神的に老いていきますが、その老化に身体や環境が適合していなければ、本人は困惑の淵に転け落ちていきます。それが思春期に重なりやすく、13歳前後の理由不明の自殺が多いそうです。(明るい家庭というものにも功罪があるということを知っておかなければならないでしょうね)。

 

しかし、闇は快楽も演出する。真の闇ではないだろうが、闇は恋愛描写や芝居の濡れ場にも出てくる。お化けごっこ、線香花火、蛍狩りなどの背景としても不可欠である。もっと日常的な情景では、暗い夜道を歩くことだけでも、闇の体験の意味があったのではないか。感受性の豊かな子どものとき、超自然的な生きものに追いかけられるようなこわさを知ることは、人の一生を夢の多いものにしただろう。ほんとうに真っ暗なところでは、顔のまえに自分の手をかざしても見えない、いわば自分の存在が視覚的に認められないのだが、そんな事実も知っているだけ貴重だったのだ。真の闇がどこにでもあった昔は、だれもそんなものにありがたみなど感じなかったろうが、今、真の闇には希少価値がある。(p.160)

 

 これを読んでいるときに、「ぼくの暗闇経験って何だろう」って思い出そうとしたのですが、いちばん出てくるのは「布団の中」なんですよね。印象的なものとしては、夜の京都の山を歩いたり、西東京のさらに西の山の地帯を夜に歩いたことなんかもあります。園児のときに鍾乳洞こわすぎて号泣した経験もあるし、記憶を失くしたときに時間というものが本当に真っ暗になったときもあります。

 

 著者は、しきりに「日本は明るすぎる(建築の照明がずっと明るさを求めてきて、それがようやく達成されたからだ)」という主張を繰り返します。僕もそれにはおおむね賛同していて、家を意識的に暗くしているし、日が沈んでも明かりを点けないなんてこともしばしば。家を探すときも「勉強のための環境」として暗さを重視したり、図書館で本を読むときもできるだけ暗がりを探す習性があったりします。

 

人間の眼は、晴れていてしかも暗い夜、星空を一番楽しめるようにできている。眼の感度の下限がそうなっているのだ。もし、感度が今の百分の一だったら、星はほとんど見えず、おそらく人間は「星」という言葉を持たなかっただろう。逆に、もし感度が百倍あったら、われわれは無数の星が狂うように光り輝く夜空の下で、不眠症になっただろう。(…)夜は暗くていけないか、と問われると、だれでも一瞬動揺するだろう。なるほど都会の夜が明るいのは楽しく便利だが、暗い夜もあっていいはずだ、暗い夜には現代人が捨て去っただいじなものがありそうだ、と直観的にわかるからである。(p.184)

 

 僕が「星」という言葉を知っているのは、ちょうどよい深さの暗さがあったからだという再発見。もちろん筆者は、明るいことが悪いことだといいたいわけではなくて、どのページを読んでいても、かなり中立的に書こうという姿勢がみられます。

 

 最後に、一番よかったなって思ったところを引用して、終わります。ありがとうございました。

 

しーゆーれーらー

 

日没の瞬間、太陽は地平線からすっぽりかくれる。しかし、このとき突然真っ暗になるのではないことは、だれだって知っている。全天空照度はすでに正午をピークとして、わずかずつだが下がってきている。しかし、ふつう人は暗くなっているのに気がつかない。日没一時間くらいまえになって、やっと暗さを意識するくらいのところだろう。日没直前ごろから薄明に入る。そのころから暗くなるスピードが増すので、人は暗さがすすむのをはっきり感じる。薄明は、照明学では興味ある時間帯で、眼が暗さに追いつかないからものは見えにくく、電灯をつけても夜ほどは効果が上がらず、やはりものは見えにくい。だが、薄明は、個々のものを埋没させてしまう代わりに、視界全体をまどろむように美しく見せる。(p.64)

 

(4)『現代アフリカ入門』 / 勝俣誠

現代アフリカ入門 (岩波新書) / 勝俣誠

*1991年に出版されたものです。

 

勝俣氏は明治大学の国際平和研究室に属している教授(所長)で、所長挨拶では「そして、そもそも私たちはどんな世界に住みたいのでしょうか」と問うている方です。飢餓の問題、貧困の問題、紛争の問題、人権の問題、いろいろな課題が世界中にあるように感じますが、その問題を「そもそも」の地点に立ち戻り、もういちど考えてみようとする、腰の据わっている、息の長い、思考の持ち主だと思います。

 

しかしながら、この地域に対するヨーロッパの支配に対して、「民族国家」の誕生を意味する独立を、アフリカ人が明確かつ広範にわたって要求しだしたのは、第二次世界大戦が終了した、比較的最近からである。…「独立」とは、いつから、どのような過程を経て、どのような統治単位をもとに生まれてきたのであろう。このような、一見アフリカ近代史において今さら投げかける必要がないほどわかりきった問いに、改めて答えてみようとすることこそ、今日のアフリカ社会のあり様を、いっそうはっきりと見て取れる一つの手だてである。(p.9)

 

「もう議論する必要も、分析する必要もないことを、もういちど」という姿勢が、私はとても好きです。くわえて、入門というタイトルコール通り、私のような世界情勢に無知な人間でも読んで理解することができます。

 

(もちろん先に断っておかなければならないのは、世界史を日本語で書いているという点です。人名や地名のカタカナな暴風があったと思ったら、すぐに「国際平和機構」みたいな画数の多い六字熟語や、「ICE」みたいな意味のとりにくい略字だったりが登場して、読みにくさを演出してくれます。それと大事なことに、勝俣氏の文章はそこまでフラットではなく、割と堅めの論文チックなのも難しさを増強させているかもしれません)。

 

ソマリランド共和国」(『謎の独立国家ソマリランドがオススメです)、「フランス連合」、「クスクス暴動」、「シャンガイブルー」、「イスラムはわが宗教、アルジェリアはわが祖国、アラビア語はわが言語」、「チカヤ・タムシ」、「グループライツ」、

 

しかし、アルジェリアで今日危機として顕在化しているは、アフリカの最貧国で飢えによって生理的に社会が再生産しにくくなっている「絶対的貧困」とは異なる、「相対的貧困感」ないし「不平等感」なのである。(p.45)

 

構造調整政策とは、アフリカ諸国が対外責務返済を繰りのべてもらう条件として、返済資金を捻出できるように、公共部門の縮小、公務員給与と各種補助金の削減、通貨切り下げなどによる輸出促進、輸入の自由化などの債権国グループ側の勧告を受け入れることである。もし勧告を拒否すると、「非協力的な国」に分類され、以降、IME・世界銀行はもとより、ほかの資金の流入もとまってしまう危険をおかすことになる。この政策の実施は、二つの経路を通じて、民主化の動きを準備する役割を果たした。(p.66)

 

もし、政府開発援助(ODA)として出資されている構造調整援助が、単にアフリカ諸国の債務返済を迫るものでなく、貧困の解消を目的とするならば、今や構造調整策は、将来の開発を語るだけでなく、日々の貧困にどう対処すべきかにも明確に答えることが要求されている。…むしろそこで問われるのは、この大陸に注ぎ込まれた開発援助が、しばしば本来の民衆の手によって交替されるべき独裁政権を逆に延命することに貢献し、貧困問題に正面から取り組もうとしなかった点だろう。(p.105)

 

テーマの多くは、経済の話となっております。出てくるものは、かなり厳しい話ばかりで、私のような判官贔屓で感情移入をしてしまうと、やられかねます(苦笑)続けて、

 

しかしながら、援助を民主化に結びつけるこの「リンケージ外交」が、八九年にフランス革命二〇〇周年を迎えた同国の人権尊重の原則によるものであるとは、安易に断言できない。多くのアフリカ人は、フランスが自国の権益を守るためには、中央アフリカやザイールなどの国々の人権侵害の報告などものともせず黙々と援助を続け、南太平洋やカリブ海では、今なお海外県・海外領土と称する実質的植民地を力により手放そうとしないことを知っている。(p.71)

 

こうした立場はフランスだけではなく、他の先進工業国にも広がっていくものと考えられる。…このギニア一つとっても、世界最大のボーキサイト資源を有しておきながら、独立後の三〇年、年間国民所得が約三〇〇ドルという最貧国にとどまり、経済の自由化政策のもとで、今や「白人」のマネージャーや援助関係者が戻ってきている。では、現在、この大陸に吹き荒れている民主化の嵐は、アフリカが経済的苦境を脱出し、かつての尊厳を回復できる契機となりうるのだろうか。(p.72)

 

勝俣氏の話は、どんどんと核心に近づいて参ります。

 

だが、アフリカで今日必要とされている民主化は、不正を告発し、国の富をより構成に分配させることだけではない。これはまたいかにして、国民がみずからの創意とやりがいをもって、国の富の形成に参加できるのを可能にするか、という使命を負っている。したがって、もしアフリカの尊厳をアフリカ人自身が語るとしたら、これは自国の地下に眠る金や石油といった天然資源でもなければ、広大な大地でもない。何よりもまず自国の富の形成のために、どのくらい広範にわたり国民が納得して参加しているかであろう。(p.75)

 

すごく本質的です。

 

今日のアフリカは、世界の中のアフリカである。この大陸のどんな奥地にある村でも、一本の道があれば、その道は必ず都会に行きつき、その都会のかなたには先進工業国の世界が待ち受けている。いつの時代にもまして、人は移動し、商品は売り買いされ、情報は流れていく。逆に今日のアフリカで、人もモノも動くことなく、情報も滞留してしまっている共同体を見つけることはますます困難になっている。したがって、今日のアフリカを見る時、この大陸が望もうと、望むないと、拡大してきている外部世界との関係においてこそ、その政治、経済、社会の様々な問題を考えなくてはならない。(p.188)

 

世界史では学びきれなかった「アフリカ」 - それが現代ではどうなっているのかということが、かなり詳しく分かりました。この一冊が書かれた1991年から、もうすでに23年も経っているわけで、現在のアフリカの本質を見つけるためには、このような一冊を経由しておくのがよいかもしれませんね。著者に言わせれば、「世界の中のアフリカ」ですしね。

 

ありがとうございました。おわる。

 

しーゆーれーらー

(3)『たくらむ技術』 / 加持倫三

たくらむ技術 (新潮新書) / 加地倫三

 

加持氏は、『アメトーーク!』や『ロンドンハーツ』などの人気番組を仕切っている人で、テレビ朝日を救った(?)男とも言われる若手(?)のプロデューサーさんです。

 

技術というのは、本来は知覚することができないものを引っ立てて探しだすことである - 哲学者のマルティン・ハイデガーの考え方です。では、「たくらむ技術」というのはなんでしょうか。企むことによって、本来は隠れているものを見つけ出すことと言えるはずです。その「本来は隠れているもの」とは、いったい何でしょうか。

 

おそらく、加持氏にとって、それは「人間」でしょう。手前味噌なことかもしれませんが、加持氏は、企むことによって「人間の人間であることの楽しさ」というものを、引っ立てて探しだそうとしているのだと思います。ただ、そのことについての記述はありませんでした。しっかりと読み込めば、氏の言葉の全体から伝わってくるはずなのですが、おそらく普通の新書の読み方をしてしまうと、「たくらむ技術」というタイトルから期待できるものは、あまり多く得られないでしょう。

 

僕が今回、偉そうに本を出した一番の理由は、テレビの仕事を1人でも多くの人に知ってもらいたい、そしてこの仕事を目指してもらいたいと思ったからです。(p.205)

 

加持氏にとって、怖い若手がいないのだそうです。アナウンサーの吉川美恵子氏が「後進が育っていない」ということに危惧して、引退後も活動を続けているのと似ている感覚かもしれませんね。そのせいもあって、著書の大半は仕事についての話です。『アメトーーク!』の裏側が気になる人にはオススメですし、テレビの裏側に入りたいという人のモティベーションには大いに役立つと思います。

 

結局、身の丈に合っていないものというのは、ダメなんじゃないか。そう思うのです。視聴者を過剰に意識して、トレンドや最新情報をいくら仕入れたところで、自分自身が「面白い」という強い感情を持たない限り、番組で活かすことはできないし、どうコントロールしていいかも分かりません。(p.36)

 

「あぶら揚げ」をテーマにしただけの1時間のトーク番組。あぶら揚げへの愛を芸人たちが語りつくす。無理があります。普通に考えれば「ないな~」と言って終わる話。…でも、僕はこういう時いつも、「逆にどうなんだろう」と考えることにしています。…そうしなければ、同じような思考の選択肢ばかりを揃えてしまうことになります。(p.40)

 

もちろん「たくらむこと」のハウツーが載っていないわけではありませんが、その多くは「構成」に関することであり、ヒント程度の情報がいくつか載っているといった感じです。

 

しかし、「企む」というのはどういうことでしょうか。本書には書かれておりませんが、おそらく「どの部分をどのように好きになってもらうかを考える」という意味で使っていると思ってよいでしょう。主に『アメトーーク!』や『ロンドンハーツ』の、どの部分をどのように好きになって欲しいか、という企みを全てさらけ出している本という意味では、加持氏のたくらみ方をバラす自己暴露本というか、制作サイドのエッセイとなっています。

 

その意味で、企むことは「自己PR」に繋がっており、自分をどのようにブランディングしたいかどうか迷っている人のヒントになることはたくさん拾えるでしょう。

 

繰り返しますが、全ての人に全く不快感を与えずに番組を作るなどといったことは不可能です。見た人全員に納得してもらうことも難しい。だから、そんなことを目指しているわけではありません。ただ、「嫌な感じ」と思う人が10パーセントいたとして、こちらの工夫や配慮でそれを9パーセントに抑えることはできたかもしれない。だとすれば、そのための努力は欠かさないようにしたい、と考えているのです。(p.91)

 

「損する人」を作らない。もちろん、番組に「毒」の部分は必要です。特に「ロンドンハーツ」は、芸人同士が互いの欠点、恥ずかしいところを面に出していって、みんなで面白くするという要素が強い番組です。一定の量の毒はどうしても必要になります。でも、その毒を入れながらも、不快に思わず楽しんでもらえるように、「毒」をコーティングするにはどうすればいいのか、そこに細心の注意を払っているのです。(p.92)

 

このような「こだわり」を知ってもらえれば、番組をさらに愛してもらうことができますし、それが「このような感じで愛して欲しい」という企みと重なっていれば、「玄人化する視聴者」(p.202)にも受け入れてもらうことができるでしょう。かくいう私も、この一冊を読んで、『アメトーーク!』のことがさらに好きになりました。(1時間番組になってから構成の仕方に微妙な難を感じておりますが)。

 

「視聴者は1回しか見ないのだから、編集業務のときはなるべく観る回数を減らす」(p.112)や、「勝ち越し続けるには一定の負けを勘定に入れて、ヒットしているときに次の準備をしておけば、先細りの罠にかからずに済む」(p.70)といった、仕事に関する考え方やこだわりについての文章も散見しており、<たくらむ技術>について読みたい人には物足りないかもしれません。

 

企むことは、おそらく「下ごしらえ」(p.12)と通じているでしょう。強い目的意識と、そこから生まれてくる準備力・実行力。『Rの法則』という番組で、ヒャダイン前山田健一氏)が、「作曲のときに気をつけることは、驚かせること(意外性)だ」と言っていて、きっとあれも「企み」なのだろうと思います。

 

逆説的に言えば、「丁寧な雑さ」だとも言えるし、「気付かれないように設えること」だとも言えるでしょう。企みというのは、どこまでも雑であり、その雑さを肯定するものです。「計算だけで100点は取れない」(p.97)というように、ある程度「ラフな部分」を残しておく雑さ、番組という生き物の「アトランダムな動き」に合わせて調整していく頭脳、そういうものが加持氏にはあるような気がします。

 

本書に書かれていることは意外と真面目で、タイトルと少しかけ離れているところに、期待外れの感じはあるかもしれませんが、「加持という化け物を少しでもいいから知りたい」という自伝的な読み方をするには、とても良い一冊だと思います。

 

ありがとうございました。おわる。

 

しーゆーれーらー

(2)『自分探しと楽しさについて』 / 森博嗣

自分探しと楽しさについて (集英社新書) / 森博嗣

 

大学教授であり小説家でもある森氏が、だれでも悩んだことのあるだろう「自分とは誰か」「自分らしさとは何か」などについて書いた本です。バリバリの理系らしい「きっちりした文章」は、もしかしたら、村上春樹氏などを自分のなかの文章像としているような文系の方には合わないかもしれません。

 

また哲学書の体裁ではないので、ひとつひとつの問題に対して「深くは掘り下げていない」こともひとつの特徴でしょう。新書らしい、つまり、難しいことは分からないけれど、「自己-他者」に関する入門的な本を読みたいと思っている人にはオススメすることができます。この本を読んで、なんとなく理解することができたら、精神分析系の学者が書いている自己他者論を読んだり、もっと深遠なものに手を出したければレヴィナスやブーバーなどの自己他者論を読んでみても面白いかもしれません。

 

自己他者論の魅力的なところは、「書かれていることに関して自分は絶対に知っている」ということだと思います。どんなに難しいことが書かれていても、自分について、他者について、自分と他者との関係について、あるいは自分と「それ」(非人格的なもの)との関係について、そういったものは私たちがすでに知っているはずのことですから、辛抱強く読み続けていれば、どこかで分かるタイミングが来るということです。

 

そんな自己他者論が、簡単な言葉で、理路整然と書いてある新書です。

 

間単にいえば、自分が何を欲しがっているのかがわからない、という状態かもしれない。目の前にショーケースがあって、そこに商品が並んでいれば、その中から一番欲しいものを指さすことはできる。子供のときから、そうやって「欲しいもの」を決めてきた。…ところが、自分の生き方というものは、どこのショーケースにも陳列されていない。似たようなものは多々あるけれど、それが本当に自分にぴったりマッチするものなのか、今一つ疑わしい。つまり、ショーケースの商品を求めるように、他者の生き方を観察し、誰かの真似をしようとすると、必ず無理が生じる。(p.6)

 

ネット波乗りをしていると、たくさんの人の、たくさんの活動に出会うものです。動画サイトで歌唄いとして活動していたり、クリエイター集団を集めて創作活動したり、自分のやりたいことのために資金を集めたり、日々の勉強の成果を日記にして発表したり、観た映画・読んだ本などの評論を書いている人もいます。

 

ただ、それをどんなに目の当たりにしたところで、インターネットは「他人のやっていること」しか教えてくれません。私がやるべきこと、私にぴったりのこと、そういったことは検索窓に出てこないのです。

 

「他者」というものが、どれくらい「自分」に影響を与えているのか、ということを自覚するのはとても大切だと思う。それを考えることで、「自分」がより一層はっきりと見えてくる、ともいえる。それくらい、実は「自分」は「他者」によって形成されているものなのだ。(p.93)

 

簡単に言っているけれど、これは実際にとても難しいことです。たとえば、心理学には「単純接触効果」というものがあり、この実験(**Link:「こころについて語るとき我々の語ること」)は、ほんの些細なことがどれだけ自分に(あるいは他者に)影響するかを教えてくれます。重要性の全く無いような、本当に本当にどうでもいい接触が、自分や他人に与える影響というのは、正直なところ「計り知れない」ものであると言ってよいでしょう。では、ガッツリと関わる人間 ― すなわち親族、兄弟、恋人、友達、同僚、毎日乗る電車のアナウンサー、毎日通うコンビニのレジ店員など ― から受ける影響というのは、もう、自覚しようと思っても不可能なのではないかとさえ思えてくるものです。

 

「他者」に依存したもののわかりやすい代表格として、「勝負」がある。他者と自分を「勝ち」と「負け」で分ける行為だ。競争社会なので、どんな場面でも勝ち負けがあるのはしかたないが、しかし、「勝つことが楽しい」という感覚は、他者に依存しているので、その「楽しさ」を自分だけで味わうことはできない。…楽しさとは、けっしてそういうものではない。楽しさは、「他者」との比較から生まれるものではない。「自分」の中から湧き出るものだ。(p.118~121)

 

いまや「はい、論破」でお馴染みの文脈かもしれませんが、勝手に勝負し始めて、勝手に勝利していく人がいます。そういう人に出会うたびに、その人は「勝ち負けの二元論」に縛られている不自由(もちろん勝負を勝手に仕掛けて、勝手に勝敗をジャッジするあたりは自由)な人なのだろうと同情にも似た寂れる感情を抱くのです。

 

「(他人を巻き添えにしないタイプの)楽しさを見つけることが、自分を見つけることだ」という論旨を、森氏は貫いております。それはショーケースとして、あるいはカタログとして与えられるものではなく、用意してもらえるわけでもなく、自分の足で見つけなければならないのでしょう。

 

旅の目的は、「姿を晦ますこと」(p.166)なのだ、と、森氏は言います。これを読んだときに、楽器のチューニングと似ていると思いました。私の場合は専らギターですが、チューニングをするためには、まず1~2音ほど低いところまで落として、そこから正しい音に引き上げていくものです。つまり、まずは「音を晦まして」から、正しい音を探るということなのですね。いきなりドンピシャで正しい音に辿り着ければ、それに越したことはないのですが、人間はそこまで立派なマシーンではありませんから、このような手法が最善なのでしょう。

 

だから、旅の目的は、「チューニング」だと言い換えてもよいかもしれません。自分探しというのは、結局のところ、「いまここに居る自分」に意識を合わせることだったり、改めて認識し直すことだったりするのではないでしょうか。森氏の言うように、それは旅じゃなくてもよいし、庭の落ち葉ひろい(p.52)でもよいのです。

 

人間関係、生きることについて悩んでいる人にとって、穏やかではないけれど確かなヒントを与えてくれる一冊だと感じます。ぜひ手にとってみてくださいね。

 

それでは、ありがとうございました。おわる。

 

しーゆーれーらー

(1)『図書館に訊け!』 / 井上真琴

 図書館に訊け! (ちくま新書) / 井上真琴

 

もし学校がなくなっても、図書館と本屋だけはなくなってはならないと思うのです。司馬遼太郎も、きっと、同じことを思うでしょう。私は古本屋として、本というものを、時には送り動かし、時には拝み抜いてゆきたいのですが、図書館司書もまた、本というものを自在に操る図書のスペシャリストなのです。そんなスペシャリストのひとり、井上真琴さんが図書館について熱く語った一冊。

 

図書館。誰もが知ってる未知の国。(p.9) 

 

『図書館読本』の帯コピーから引用したという一行。この言葉から、この一冊が始まります。なんてワクワクする書き出しなのだろう - 整頓され切った目次からは思いもしない冒険的な出だしに、ページを繰る指が疾ったのを覚えています。

 

図書館の怖いところは、利用者の関心やレベルに応じて、その相貌と機能を変えるところにある。このため、自分は十分利用できていると自認していても、知らず知らずのうちに稚拙な利用法で終わっていたりする。自分が成長しない限り、相手も変わってはくれないのだ。(p.10)

 

氏が上梓しようと試みているものは、図書館の案内パンフレットなんかではなく、まるで生き物のように変化する「図書館の生態学」であるといえるでしょう。つまり、図書館というものが「どこまであるのか」という専門的な問いと向き合っていく、知的な一冊なのです。《入口は容易に通過できるが、出口は永久にみつからない》(p.10)という言葉が出てくるということは、"そこ"を探検した氏だからこそなのだろうと思います。

 

図書館に並んでいる資料は、単に店先に並んでいる魚に過ぎない。そして、それは資料の世界や情報の世界のほんの一部に過ぎない。だからこそ、レファレンス・ライブラリアンは、利用者への質問に答えるため、渉猟する対象の分野や主題、利用する道具、つまりレファレンス・ブックを徹底して知り抜こうと努力をしている。(p.218)

 

医者や教師と同じほどに、本に関する知識を持っている者は重要な存在なのです。いえ、むしろ医者と「同じこと」をしていると言ってもおかしくないかもしれません。

 

レファレンス・サービスは、利用者の調べものに対し、図書館員が援助する人的資源サービスと定義できる。…利用者が、自分の調べたい対象や探索したい事実が明確であることはきわめて稀である。そこで、レファレンス担当者は、利用者に多角的なインタビューを試みる。…図書館員はインタビューを通じて、質問者が調査したい対象にかたちを与え、いまの段階で欲しい資料や情報を適切に紹介してくれるはずだ。(p.178)

 

この仕事内容は、医者の「診察」と同じだと言えるでしょう。聴診や触診、あるいは打診などを巧みに取り入れていると思われます。このような名医がいるからこそ、私たちは膨大な書物の海に溺れることなく、研究の海原を乗り越えていけるのでしょう。

 

私が「本屋さん」で実現したいことが、このようなリファレンスです。かといって大学の難しい研究ではなく、もっと身近な、もっとカジュアルな、「いまのこんな私に、何か本をひとつ」という小さくて大切な欲望にマッチする本を差し出せるような、そんな存在、そういった本に出会える場所、そのようなものを目指しております。それを記すために、最初に『図書館に訊け!』を取り上げた次第です。

 

紙の書物は、いまやお払い箱のように言われることもありますが、何も電子書籍と「決闘するもの」ではありません。図書館が、古本屋が、書斎が、本棚が、全てキンドルたった一台になってしまった世界を想像することができれば、いかに書物というものが、「そこにあるだけで」力を与えてくれていたのか、分かるかもしれないですね。

 

図書館の世界、図書の生態について、本当によく書かれている新書ですので、ぜひ手にとってみてください。

 

それでは、ありがとうございました。おわる。

 

しーゆーれーらー